SUBARU 360
「てんとう虫」の愛称で親しまれ人気となったこの車。誕生したのは昭和33(1958)年だ。
多くの人が“小柄でかわいらしい”イメージにぴったりだと感じていたことと思う。しかし、チーム名が正反対のイメージを抱かせる「ジャイアンツ(巨人)」の歴史に残る出来事があった年と同じ年なのがなんとも妙な偶然だ。打撃の神様と言われた川上哲治の引退、後の国民的人気球界人長嶋茂雄のあの四打席四三振(投手は当時国鉄スワローズのエース金田正一)の鮮烈デビュー、さらに、前監督の原辰徳が誕生した年なのだ。
で、本題に入るが、日本の国民車構想の出現が昭和30(1955)年だから、この車の誕生3年前の事だ。開発経緯は諸説あるようだが、何がしかの影響はあったのだろう。結果的には、わが国独特の軽自動車の代表格となってそのジャンルを確立し、実質、国民車的存在になったことは、歴史に残る大偉業だと思う。
ちなみに、大先輩であるドイツの国民車「フォルクスワーゲン」の愛称は、ご存じ「かぶと虫」である。
ところで、冒頭に“小柄でかわいらしい”と表現したが、機能や性能は開発者である百瀬晋六が目指した通り、企画は当時の軽でありながら小型車の実力だった。
この写真2点は昭和36(1961)年頃の発行と思われるカタログに掲載されていたもので、バックに移ったオクタン価が表示された給油機などから、時代が見えてくる。団地(この時代の象徴か?)をバックにした写真のページには「航空機で鍛えた最新の技術を生命とする富士重工が創造した自動車・スバルは、4人乗り乗用車として、日本の道路事情にぴったりした車です。定評ある高性能と経済性・耐久性は、ユニークなスタイルとともに、大衆の車としての条件を完備、多くの人々の信頼を得て、名実備わった⋆国民車の名を与えられています。」とある。
4人乗り、軽量で丈夫なモノコックボディー、優れたサスペンション(四輪独立懸架)。強制空冷にサイクル直列二気筒エンジンは最高速90km/h、登坂能力17.5度と高性能でありながらフロントにナンバープレートがなく、左右ともにフェンダーミラーがあるのはデラックスのみというのも時代を感じさせる。また、全体が物語風に仕立ててあるところもカタログの構成としては珍しく面白い。
この写真は昭和38(1963)年のカタログに掲載されていたもので、クルマの特徴的なところの表現は大きく変わらないが、なんといっても「富士 ベル204B型ヘリコプター」と並んだいかにも富士重工らしいこのページが印象的だ。さらに、マイホームとファミリーをクロースアップしたところが見事に時代を映している。
ところで、この車の誕生の年に世界初のインスタントラーメン、日清の「チキンラーメン」が発売され、その後の食生活に大きな影響を及ぼすこととなった。また、後の国民的人気歌手坂本九の「日劇ウエスタンカーニバル」での初舞台もこの年。そして、わたしの大好きな「月光仮面」のTV放映がスタートした年でもある。子供の頃の懐かしい想い出だ。
もう一つ忘れてならないのが、東京のシンボル「東京タワー」が完成した年でもあることだが、技術力と職人技の創り出した力作だ。
航空機製造の技術を生かしたクルマ造り。わが国では特異な存在だが、その富士重工の極めつけ職人技と技術、そして実績に乾杯‼…だが、近年絶好調の軽自動車からパイオニア「SUBARU」が撤退してしまったのがなんとも寂しい限りだ。
⋆昭和30(1955)年当時の通産省案とされた国民車構想(あまりに厳しく、当時のメーカー各社の合意で反対され実現しなかった)には合致しないが、排気量が356㏄であったことを考えれば、それ以上の実力だったと思える。(管理者注釈)
(敬称略)[2018-1改]
まさにAlways3丁目の夕日が舞台になった年!両親がだいすきな映画です(*´꒳`*)
昭和42年42万円で購入するチャンスがあり中古車に行ったのですが、お店で迷ってサニー1000になってしまった覚えがあります。当時の新車価格はいくらだったのかなぁ