BELLETT ’72
昔からいすゞと言えばトラック、バスのイメージが強いが、昭和21(1946)年に社長に就任した三宮吾郎の乗用車製造にかける思いは相当強いものだったと聞く。
その思いは、ルーツ社との技術提携による昭和28(1953)年からの「HILLMAN」

[My SKETCHBOOK]より
のノックダウンに始まり4年後には国産化を完了。
昭和36(1961)年には「BELLEL」

[カタログ]より
を発表する。
その年、小型車総合専門工場としての藤沢工場第一期工事が完成、翌昭和37(1962)年に操業を開始した。
しかし、その操業を待たずに逝かれた三宮吾郎の無念を思うと心が痛むが・・・。
そして翌昭和38(1963)年、「BELLETT」

[カタログ]より
が登場する。
当初は「GASOLINE1500」と「DIESEL1800」の2本立てでのスタートだった。
ディーゼル車をバリエーションに加えたのはいすゞの誇るディーゼル技術の表れだったのだろう。
ハード面の主たる特徴は卵型の「モノコックボディ」「全輪独立懸架」「2.3.4速シンクロメッシュ式4段変速機」など、ソフト面では「バケットシートと変速ダイレクトコントロールの組み合わせ」が選べるなど、スポーティセダンの表現がぴったりだった。
さらに、「Sports kit」も設定されていた。
そして翌昭和39(1964)年に最初のパワーアップ。併せて、本格的「GT」の先駆けとされる「1600GT」

[カタログ]より
を追加する。
翌昭和40(1965)年にはシリーズにAT車を追加、昭和41(1966)年には丸型4灯式

[カタログ]より
にフェイスリフト。
さらに、「角ランプ2灯式でリヤーをハイデッキスタイル」としたBISINESS仕様の「(B)-TAYPE」

[営業車カタログ] より

[営業車カタログ] より
をバリエーションに加え、併せて「ベレット・シリーズに新しい仲間が加わりました!」として「角ランプ2灯式で標準リヤー」のシリーズを揃えた。
カタログに「いすゞと富士重工の力強い提携を表わすマークです。」とあって懐かしいが、実はこの「1500 4ドア デラックス」

[カタログ]より
が我愛車になった。
カタログに、「乗り心地は全輪独立懸架の採用で、どんな条件の道路でも平気。」「高速性能にもめぐまれた1500cc68ps/5000rpmエンジン、頼りがいのあるメカニズムです。」とあって、その通りだと感じていた。
くせを嫌う向きもあったようだが小生は好きだった。
50年以上も前のことだから、細かいことは記憶が薄れつつあるが、タコメーターを付けたり、手製の黒く塗ったベニヤ板をくりぬいたパネルに油圧計(OIL pressuregauge)・電流計(A meter)・電圧計(V meter)をインパネの下に据え付けたり、アンテナを後方に傾けたりと手を加えて楽しんだ。
親友とこのクルマ(2WDだが、根性とテクニック⁉を駆使して)で未舗装の林道を走破し、ひなびた温泉宿で飲みながら語り合い、翌日の未舗装路探しをするのが大いなる楽しみだった。
昨今は、お互いの都合がなかなか折り合わずチャンスが減り、クルマも変わったが…この人間関係は可能な限り続けたいものだ。
さて、その後昭和46(1971)年に登場したのが今回ご紹介するシリーズだ。
大型車の老舗らしく、なんとなく力強い雰囲気のフロントデザインに変更された。
初代からのボディスタイルを踏襲したが、
マスクデザインが、まさに「精悍=黒マスク」で、リアは初代の真赤なおむすびからの発展形おむすびが、黒い枠取りの左右4灯に変更された。
ここに、昭和46(1971)年の発行と思われる総合カタログからの画像をご紹介するので、スペックなども併せてご覧頂きたい。




















「いすゞ自動車50年史」によれば、現在のいすゞ自動車、前身の東京石川島造船所と東京瓦斯電気工業による大正5(1916)年の自動車製造計画から通算するとわが国で最も長い歴史のある自動車メーカーだ。
昭和9(1934)年、商工省標準型式自動車に、その「五十鈴川」にちなんで「いすゞ」の名を付けた。社名の由来でもある。

当時の社章、周りを囲む12の波は五十鈴川のさざ波を表していたという。
(敬称略)
[2025‐4]