TOYOTA PUBLICA (KP30)/(UP30)

昭和30(1955)年出現の国民車構想をきっかけとして6年以上もの開発期間をかけて昭和36(1961)年に発売された初代「PUBLICA(UP10)」。

〈発売の頃の発行と思われるカタログからの(UP10)〉

車名は、カタログの中に「107万余通の応募作のなかから車名を<パブリカ>と決定。」とある通り公募で決められた。

パブリックとカーを組み合せた造語だが、時に唐辛子の仲間の「パプリカ」と間違えられることもあったという。

きしくも昨今、子供たちを中心に「パプリカダンス」が人気になっているが…。

発売当初は基本型1タイプでのスタートで、コストにこだわり過ぎたためか、当時、大衆化とともに高まりつつあった高級志向への波に乗れず販売が伸びなかったことから昭和38(1963)年に「デラックス」を追加した。

そして、昭和41(1966)年のマイナーチェンジで後期型(UP20)が誕生する。

マイナーチェンジとは言えフロントからリアーまで、モデルチェンジと思わせるほど大掛かりな変更での誕生だった。

〈誕生の翌昭和42(1967)年発行のカタログからの(UP20)〉

昭和42(1967)年に「スタンダード」が359,000円になり「1000ドルカー」(当時1ドル=360円)と呼ばれ広告のキャッチフレーズになっていた。

さらに、翌昭和43(1968)年にフェイスリフト。

〈昭和43(1968)年発行のカタログからのフェイスリフト後(UP20)〉

そして昭和44(1969)年、今回ご紹介の2代目(KP30)(UP30)

が発売される。

世の中の変化に合わせた「高性能化」と「上級化」を主眼にしての「2DOORSEDAN」5車種と「VAN」4車種での登場だった。

エンジンは水冷1100/1000ccと空冷800ccの3機種がラインナップされた。

キャッチフレーズは〈ハイウエイのかもしか〉。

「俊敏で行動的、タフで優美。足が長い青年のイメージ」だということだった。

ここに発売の際に発行されたカタログからの画像をご紹介するので参照頂きたい。

ところで、発売の昭和44(1969)年は「東名高速道路」と「西名阪自動車道」が全線開通した年。高速化は着実に進んでいた。

他方、学生運動の激化で東大・京大に機動隊が突入した年でもある。

最後に、先日、問題の新型CORONAに感染し亡くなった人気の志村けんに心からのお悔やみを申し上げるが、この年も「8時だヨ!全員集合」が大人気だった。

(敬称略)

[2020‐4]

TOYOTA PUBLICA (KP30)/(UP30)” に対して1件のコメントがあります。

  1. 冨井誠一 より:

    昭和44年に東名高速と西名阪自動車道が全線開通したのですか。
    昭和44年2月に大阪転勤を命ぜられ初めて新幹線に乗りました。
    翌年昭和45年の大阪万博には何度通ったか。
    思い出は、どんどん遠くなります。

  2. 川井賢一 より:

    パブリカは空冷750ccに乗っていた記憶があるけど…。UP10ほど古くはないけどUP20よりは古かったような気がします。

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