HONDA S600 【画像増補版】
芸者さんのヒップライン!?
実はそのイメージがこの車のボディラインにつながっていったという。
本田技研工業の創業者である本田宗一郎に関する本で、「よく遊んだこと」の中に「芸者遊びも真剣にやった」などの記述を散見した記憶がある。
ただし、今更言うまでもないが、「よく遊んだこと」の表側には、必ず「それ以上によく働いたこと」の前段があるわけで、そのうえで、遊びも真剣なところがいかにも本田宗一郎らしいところだろう。
私などは、その前段の方こそ見習うべきと、反省しきりだ。
前段?が長くなったが、愛称は「エスロク」。
発売は昭和39(1964)年。前年に発売したS500
[自動車技術会・日本の自動車技術330選より]
をスケールアップし『S600』として本格生産に乗り出した。
排気量「606cc水冷4サイクル,4シリンダー,4キャブレター,D.O.H.Cエンジンを搭載、57ps/8500r.p.m.5.2kg-m/5500r.p.m.を発生、加速は18.7秒/0→400mだった。
L×W×Hは3300mm×1400mm×1200mm
(ハードトップ付 1175mm)のスモールサイズながら、驚き‼の四輪独立懸架で、なんとチェーン駆動だった。
考えてみると、現行の軽自動車規格が排気量660cc以下、L×W×Hが[3400mm以下×1480mm以下×2000mm以下]だから実質的に制限いっぱいに設計されている現在の軽自動車よりも僅かに小さかったわけだがその実力は半端ではなかった。
発売2ヶ月後の5月には、鈴鹿サーキットでの第2回自動車レースで上位を独占。9月にはニュルブルクリンク500kmレースでクラス優勝し、海外での四輪初勝利を成し遂げた。まさに「小さな怪物」だった。
下のカタログはクーペが追加されてからのものだが、パレスホテル前のスナップもお洒落だ。
その後、「S600」を現代風アレンジで登場させたら、これまた大人気になるとずっと思っていたが、既に平成3(1991)年からの「BEAT」
[自動車技術会・日本の自動車技術330選より]
ミッドシップで「E07A型」SOHC水冷直列3気筒660cc64PS/8100rpm6.1kgm/7000rpmエンジン搭載や平成27(2015)年からの「S660」
[本田技研工業株式会社ホームページより]
が「S07A改型」DOHC水冷直列3気筒660cc64PS/6000rpm10.6kgf・m/2600rpmエンジン横置で登場、人気となった。
ところで「S600」発売の昭和39(1964)年は、敗戦の日本を占領し戦後の日本に多大な影響を与えた、当時のGHQ総司令官ダグラス・マッカーサー元帥がこの世を去った。
その日本では東京オリンピックが開催され、東海道新幹線(東京―新大阪)が開業した年でもある。コーンパイプの元帥は、復興を遂げた日本に何を思っていただろう?
シャープとソニーが電卓の完成を発表したのも「S600」登場のこの年。オフィスオートメーションの兆しだったのだろうか・・・?
さらに、翌昭和40(1965)年には名神高速道路が全線開通するなど高度経済成長時代が続いていた。
さて、今や「世界のHONDA」だが、意外にも国産乗用車メーカーとしては最後発である。しかし、最後発にしろ、現実に今「世界のHONDA」があるのは本田宗一郎が国策案に猛反発して廃案に持ち込み、乗用車製造の権利を「よく働いたこと」による自信と実力で勝ち取った結果である。
そして、新規参入最後発の第一弾がスポーツカーだったのも「HONDA」らしい。
そのことについて考えてみると、スピードを連想するのはごく自然であるし、スピードを追及するのは人類の常でもある。そしてスピードといえばレースに想い至る。
なるほど本田宗一郎をして「レースに勝つことが、ほかの何物にも勝る広告宣伝になる」と言わしめたそうであるが、レースに勝利することは技術力の成果であり、メーカーの実力を示す一番の証明だからにほかならないからであろう。
創業の二輪車は言うに及ばず、四輪車においても実現させたその実力と、朋友藤沢武雄はじめ、社員を愛したお人柄に脱帽である。
(敬称略)
[2023-5改]