CROWN [3rd 後期型]
「TOYOTA」は戦後の本格的な乗用車製造を目指した時、外国車ノックダウンの道ではなく独自開発の道を選択した。
難関を乗り越え、初代「RS型」が誕生したのは開発開始から3年後の昭和30(1955)年だった。
豊田喜一郎死去の3年後でもある。
それから68年後の現在でもトヨタを代表する車として君臨しているから素晴らしい。
聞いた話だが、独自開発の道を選んだのは豊田英二であり、「日本の道(の悪さ)を知った者が開発すべき」との信念だったようだ。
小生の下手なスケッチだが、
[MySKETCH‐BOOKからの初代「RS型」]
純国産と言われるこの初代の目指したところは、悪路との戦いに勝つこと。乗り心地が良く耐久性に優れたくるまにすることだった。
エンジンは「R型」(1453cc48ps/4000r.p.m.)を搭載した。
結果、当初の心配をよそにタクシー向けにも好評を得、同年、自家用向けの「デラックスRSD型」
[昭和30(1955)年発行と思われるカタログから]
1453cc4気筒直列頭上弁式55㏋/4400r.p.m.10.5kg-m/2600r.p.m.エンジン搭載車を設定する。
翌昭和31(1956)年以降のパワーアップやMCの後「スタンダードRS20型」と「デラックスRS21型」を経て昭和35(1960)年には「1900デラックスRS31型」が登場。「トヨグライド」装着車も追加、昭和36(1961)年には「1900スタンダードRS30型」
[「TOYOPET CROWN 1900」カタログから]
1897cc4気筒直列頭上弁式80ps/4600r.p.m.14.5m・kg/2600r.p.m.
を追加するなど大きく進化していく。
そして昭和37(1962)年、2代目「RS40型」
[発売時のカタログから]
が誕生する。
第一印象は、初代と比べ「随分幅広く低くなって、
アメ車の様だ」と感じたことを鮮明に覚えている。
発売時の「デラックス」のカタログ冒頭に「どこから見てもいままでの国産車の概念を大きく打ち破った最高級乗用車です。もちろんこの画期的なニュー・モデルには、1955年以来8年間、つねに最高の信頼をかちえてきたトヨペット・クラウンの輝かしい伝統と技術がうけつがれ、開花しています。」とあり、自信のほどを窺わせるものだった。
「デラックス」のエンジンは「4R型」4気筒直列頭上弁式1900cc90ps/5000r.p.m.14.5m.kg/3400r.p.m.が搭載された。
昭和40(1965)年には個人オーナー向けグレードを追加、3代目への布石だったのかも知れない。
また、新開発の6気筒SOHC「M型」[DX用105ps/S用125ps]エンジンを加え、新グレードの「S」を追加、
翌年には最上級の「SUPER DELUXE」を加えた。
そして、いよいよ昭和42(1967)年に3代目が登場する。ごく大雑把に言えば、「黒」イメージの社用中心から「白」イメージの個人オーナー向けを目指したものだった。
この販売戦略は成功して個人オーナーの急速な増加につながったとされている。
当初のグレードは「SUPER DELUXE」「DELUXE」「OWNER DELUXE」「OWNER SPECIAL」「CROWN」「CROWN S」「CUSTOM」が設定され、エンジンは2L6気筒「M型」[100/105/110/125ps]の4タイプと2L4気筒「5R型」[93ps]の2機種5タイプで、トランスミッションが3/4MTと2/3ATの「WIDE SELECTION」だった。
フレームは従来の「X型」から「ペリメーター型」を採用、米国の安全基準のほとんどを網羅したとされる優れものだった。
そして昭和43(1968)年のMCで『3rd後期型』が登場する。
「オーナーカー」としてより相応しい「2DOOR HARDTOP」を設定、「S」は廃止した。
さらに翌昭和44(1969)年のMCではSEDANの「SUPER DELUXE」のみ三角窓を無くし、「HARDTOP SUPER DELUXE」を追加した。
エンジンは[3rd前期型]同様2L6気筒「M型」[100/105/110/125ps]の4タイプと2L4気筒「5R型」[93ps]の2機種5タイプだった。
登場の昭和43(1968)年は「水俣病と阿賀野川水銀中毒」が正式に公害病認定された年。
また、「出前一丁」、「サッポロ一番」、「ボンカレー」などが発売された年でもある。
ところで、この「HARDTOP」
については特別の想い出がある。
高校時代の悪友が、夜、このくるまでわが家の前に到着するやいなやパジャマで飛び出し、助手席に乗り込んで夜中まで語り合ったという…若き日の想い出だ。
乗り居心地が良かった。
(敬称略)
[2023‐5]