COLT GALANT

三菱の歴史は150年も前の明治3(1870)年に土佐藩が九十九商会を開業、かの岩崎彌太郎が経営者に就任したところに始まる。

数度の改称の後、明治17(1884)年には政府から長崎造船局を借りうけ長崎造船所と命名し本格的に造船事業を開始。

これは後の三菱造船株式会社に引き継がれていく。

大正3(1914)年にお馴染みの「スリー・ダイヤ・マーク」が登録される。

そして大正6(1917)年三菱合資会社造船部が三菱造船株式会社として独立する。

〈「三菱オートギャラリー」パンフより〉

がこの年からだから100年以上も前のこと…歴史を感じる。

フィアットの模倣で試作的なもので台数も22台と僅かだったが、わが国の乗用車本格製造に繋がる先駆者と言っても過言ではないだろう。「瓢箪から駒」とは逆のようだが、「造船から自動車」だ。

そして昭和9(1934)年、船舶に加えて重機、航空機、鉄道車両を製造する三菱重工業株式会社が発足した。  

終戦後の昭和25(1950)年に「財閥解体」で、三菱だから⁉ではないが、3社に地域分割(東、中、西)され、内2社(東と中)が自動車製造を手がけ、総合すると二輪から四輪大型車までを製造する事となった。

昭和39(1964)年、その3社が合併し改めて三菱重工業株式会社が発足する。

そして昭和45(1970)年に自動車部門が三菱自動車工業株式会社として独立した。

戦後の三菱の乗用車製造の流れは「ダットサン」、「トヨペット」、「いすゞヒルマン」などのボディー製造や外国車のノックダウンでアメリカのカイザー・フレイザー社の「ヘンリーJ」と広く知られる「JEEP」の製造を手掛けた事などで技術を蓄積している。

その技術を活かし、国民車構想の出現からの誕生と聞く戦後初の量産型四輪乗用車が昭和35(1960)年に発売される。車名もシンプルで、排気量を冠した「三菱500」

〈三菱オートギャラリーにて小生撮影〉

三菱500…Ⅰ

モノコック構造のRRだった。強制空冷2気筒OHV、排気量493cc最高出力21psの「NE19A型」エンジン搭載の全輪独立で定員は4名、価格が40万を切ったことで評判となった。

飽きの来ない雰囲気がなんとも言えず好きだった。

その後、昭和37(1962)年発売の「COLT 600」からの「COLT」 シリーズがスタート、軽乗用車の「MINICA」もこの年に登場する。

そして、昭和39(1964)年車種構成拡大に向けた2000ccの「DEBONAIR」

〈発売2年後あたりのカタログから〉

DEBONEIR

が誕生する。初代モデルのエンジンは水冷直列6気筒頭上弁式2000㏄105psだった。

GMのH・S・ブレツナーの手になるアメリカンスタイルでリアフェンダーについた独特のロケットランプとL型のテールランプが特徴的だった。当時の同クラス乗用車の中で全長、全幅ともに最大で高級車に相応しく剛性に優れたユニットコンストラクションフレームやタンデムマスターシリンダーを採用するなど、安全で快適な乗心地とスムーズな走行性能を実現した。   

アメリカンドリームの虜だった中学生の私にとっては感動‼だった。

その後も「ファーストバック」の「COLT 800」など精力的にシリーズを進め昭和44(1969)年に今回ご紹介の『COLT GALANT』が発売される。

発売時のカタログに「冴える国際感覚 ハイパーソナルセダンと銘打って、「輝く5つの特長 Shining5」として「●世界の主流をゆくカーデザイン〈ダイナウェッジライン〉●国際水準をグンと抜く高速加速力〈ハイパワー サターンエンジン〉●Relax & Luxury、R・L設計の爽快キャビン〈ジェットファンベンチレーション〉●確かな操縦性とクールなドライブフィーリング〈6システム ステアリング〉〈DS・DLサスペンション〉●人間尊重に徹した安全設計〈セフティ77〉」とまとめている。

ここでそのカタログからの画像を見て頂こう。

発売の昭和44(1969)年は東名高速や西名阪自動車道が全線開通した年。

「サザエさん」の放送開始やコンドームの自販機登場は嬉しかった⁉

この年の沢村賞は高橋一三(巨人)が、MVPは王貞治(巨人)と長池徳二(阪急)が獲得した。

ちなみに翌昭和45(1970)年だった記憶だが、友人とのスキーに内緒でレンタカーで行く羽目(親父に、なれない雪道長距離運転を許してもらえなかった…)になり結果このくるまで行ったことが良い思い出になっている。

バレたら一大事だから超安全運転だったが、車も気に入って楽しかった‼

(敬称略)

[2021‐2]

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