TOYOTA PUBLICA(UP20)

昭和30(1955)年出現の国民車構想をきっかけとして6年以上もの開発期間をかけて昭和36(1961)年に発売された「PUBLICA(UP10)」。

カタログの中に「107万余通の応募作のなかから車名を<パブリカ>と決定。」とある通り公募で決められたが、パブリックとカーを組み合せた造語である。

発売当初は基本型1タイプでのスタートで、コストにこだわり過ぎたためか、当時、大衆化とともに高まりつつあった高級志向への波に乗れず販売が伸びなかったため昭和38(1963)年に「デラックス」を追加した。

そして、昭和41(1966)年のマイナーチェンジで後期型が誕生する。

マイナーチェンジとは言えフロントからリアーまで、モデルチェンジと思わせるほど大掛かりな変更での誕生だった。

それが今回ご紹介する「PUBLICA(UP20)」だ。

あくまでも個人の感想だが、いかにも簡素な硬いイメージの(UP10)に比べ柔らかくスマートなイメージのくるまになったと思った。

ここに(UP20)誕生の翌昭和42(1967)年発行のカタログからの画像をご紹介するのでお楽しみ頂きたい。


このカタログに追記された神奈川の価格だからなのか値下げが頻繁だったからなのかよく判らないが、発行された年に「スタンダード」が359,000円になり「1000ドルカー」(当時1ドル=360円)と呼ばれ広告のキャッチフレーズになっていた。

ところで、誕生の昭和41(1966)年には新国際空港の建設予定地が成田に決定した。

他方、「巨人の星」が週刊「少年マガジン」で連載開始され、週刊「プレイボーイ」が創刊された。

なつかしい!!

(敬称略)

[2019‐9改]

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