DATSUN SUNNY 1000

「太陽」がタイトルの小説や映画や歌が数多くある。数え上げたらきりがないが、小説では石原慎太郎の「太陽の季節」、山崎豊子の「沈まぬ太陽」など、映画は「太陽がいっぱい」、歌は美空ひばりが歌った「真っ赤な太陽」などが良く知られている。

このように数多く登場するのは、「太陽」の存在が我々に大きく影響しているからだろう。

そこで今回ご紹介する『DATSUN SUNNY 1000』、その名は明るい快活な「太陽がいっぱい」のイメージからの命名で、発売前年の昭和40(1965)年の一般公募できめられたものだ。応募総数約850万通とのことだが、昭和30年代の「三種の神器(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)」に代わり昭和40年代にはカラーテレビ・クーラー・カーのいわゆる「3C」が「新三種の神器」と呼ばれる様になったように誰もが「くるま」を持てる時代になりつつあったことが多くの応募につながったのだろう。団塊世代の方々には「俺も応募したなぁ・・・」という方も沢山いらっしゃるだろう。

当初は「2ドアセダン」のみでの発売だった。昭和41(1966)年のことだ。

翌昭和42(1967)年に「4ドアセダン」を加え、昭和43(1968)年に「クーペ」を登場させた。さらに昭和44(1969)年には「セダン」「クーペ」ともに豪華版の「GL」をシリーズに加え拡大させていった。

発売初期のセダンは新設計の「A10型」エンジンを搭載。

「4サイクル水冷頭上弁式(ガソリン)直列4気筒」1000cc56ps、モノコックボディで最高速度135km/hの丈夫で軽快なくるまだった。

機構的にも「日産の特許技術」による前輪独立懸架や「ボール循環式」のステアリング機構が採用されるなど工夫されていた。

ところで、発売の昭和41(1966)年には国民年金法の改正があったが40年後に国中が年金問題で大揺れになろうとは誰も予想しなかったろう。

一方、スポーツ界では、後に巨人軍の監督も務めた当時の新人投手、堀内が開幕13連勝をマークした。

また、ボーリング場で2~3時間待たされるのが常だった時代。よく待ったものだ。

歌は黒沢明とロスプリモスの「ラブ・ユー東京」や千昌夫の「星影のワルツ」など今でもカラオケで人気の曲だ。週刊「プレイボーイ」が創刊された年でもある。

変わったところでは、日本初のテーマパーク「常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートとハワイアンズ)」開業の年。石炭の時代が終わり、採炭には邪魔者だった温泉を見事に温泉レジャー施設に変貌させた。開業前年「常磐音楽舞踏学院」が設立されて、その時代、石炭の町では考えもしなかったフラダンスを地元の若い女性たちが踊って見せることになったという経緯だ。

さて、「2ドアセダン」の発売時と思われるカタログからの画像をご紹介するのでご覧いただきたい。

冒頭に「<世界の日産>の技術とセンスを結集!」の表現。「従来の“大衆車”のイメージを見事に打ち破った1000㏄乗用車の決定版ともいうべき美しさです。」とまとめている。そして特徴としては「軽い」「速い」「強い」 を強調している。

昭和35(1960)年に自動車業界で初受賞した「デミング賞」のキーホルダーをここにデザインしたところが「世界の日産」らしい。

(敬称略)[2019‐5改]

DATSUN SUNNY 1000” に対して1件のコメントがあります。

  1. sukezaemon より:

    管理人さん、同世代のようですね。
    「団塊の世代」この言葉は嫌いですが。
    私も応募した一人かな?
    自家用車を所有できるようになって、2台目がサニーでした。
    それも、元会社の営業から、車両紹介でお願いしますと言われた記憶がある。
    営業取引に利用されたようだ。

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