TOYOTA SPORTS 800
10年程前から元旦に弟家族と新年会。
日程の調整も不要で、偶然にもメンバーの大半が駅伝の強豪校(近い過去も含めればだが…)の出身者なので翌日からの箱根駅伝の予想などで盛り上がるのも楽しいが、何より兄弟の仲が良いのが嬉しいことだ。
…で、その兄弟(姉妹)にちなんで、業界における双子車、兄弟(姉妹)車について検証してみることにする。
専門的には「バッジエンジニアリング」と言われる通りのエンブレムのみの違いから、グリル、バンパーまわりまでが違うケースまで様々ある。GMにおけるディビジョンにわたる場合や、わが国では販売系列による「セドリック/グロリア」、「マークⅡ/チェイサー/クレスタ」など色々だ。近年ではOEM車などライバルメーカーから供給されている場合(A社で製造・販売している車種aをA社からB社に供給しB社の車種bとして販売)もあり、時代の変遷を感じさせる。
また、同一車種のセダンに対するクーペやワゴンなどを派生車種と呼び、大半は顔が同じでボディラインが異なるなどの場合が多いが、ちょっと変わったケースもある。
ということで今回は異色の「パブリカ」のケース…開発時点では派生車種「スポーツ」で発売された際には独立した『TOYOTA SPORTS 800』をご紹介する。
「パブリカスポーツ」としてモーターショーに参考出品されたのが昭和37(1962)年のこと。特徴的なドア一体型スライディングルーフの丸みを帯びたボデーで、顔は生産型につながるイメージだった。2年後の昭和39(1964)年には、前年登場の「同コンバーチブル」の空冷2気筒水平対向式700ccツイン・キャブ36psエンジンを搭載した生産型に近いモデルが出品された。そして翌昭和40(1965)年『TOYOTA SPORTS 800』として発売されたという経緯だ。
「パブリカ」のエンジンを僅かにサイズアップし、ツイン・キャブを装備した800cc45psエンジンを搭載、開発時同様グループの関東自動車工業の手になるボデーでのデビューだった。
多くのスポーツカーがエンジンありきで開発される中でトヨタ初のスポーツカーは大衆車のエンジンをパワーアップしながら流体力学を駆使したデザインと軽量なボデーから最高速度155km/h、SS1/4マイル18.4秒を誇る本格的ライトウエイトスポーツだった。
ここに昭和42(1967)年発行のカタログからの画像をご覧いただくが、
いかにもスポーツカーらしいチェッカーフラッグ背景の表紙とその裏にはレーシング仕様に改造された車両が映えるピット風景。次ページには「トヨタが自動車技術を結集した高性能スポーツカー…」「目をみはる高速性能プラス完ぺきな実用性…」とあり各々の説明には「馬力荷重わずかに12.9kg/PSにすぎません。」の表記もある。さらに、メカニズムを見せる透視図も鮮明だ。
裏表紙には、■技術で世界のトップをいくトヨタ… ■名実ともにトップメーカーのトヨタ… ■サービスもナンバーワンのトヨタ…とあり、メーカーとしての自信のほどがうかがえる。
市場デビューの昭和40(1965)年に自動車工業振興会(現日本自動車工業会)が第12回東京モーターショー開催に合わせ記念出版した自動車ガイドブック
をめくると、会長川又克二(当時日産社長)の「自由化後のわが自動車工業界」と題した巻頭記事や「座談会…乗用車の自由化を迎えて」など、乗用車の輸入自由化に関する記事が中心で、裾野の広い自動車業界でもあり、完成車の自由化よりもその後に来るであろうノックダウンや資本自由化に於ける米国資本への警戒感が強かったことが読み取れる。およそ40年後に日本のメーカーが質、量ともに世界をリードする事になるまでの予想はないが、同振興会ガイドブック委員長中尾允夫の「自動車工業・世界の動き」と題した記事の中に「日本の自動車工業も驚異的な上昇を続けており、先進国に追いつきやがて追越すのも時間の問題でありましょう。」とあるのが印象的だ。
(敬称略)[2019‐1改]