DATSUN 110/210

真相は不明だが、渦中のカルロス・ゴーンがCEOだった平成24(2012)年に海外ブランド(新興国向け)として復活させた『DATSUN』。元々は車名としての『DATSUN』。今回はその「ネーミング」の変遷とともに、『DATSUN 110/210』をご紹介する。

源流は、明治44(1911)年に橋本増治郎によって東京に設立された「快進社自働車工場」にたどり着く。橋本増次郎はアメリカ赴任のあと日本で自動車工業を起こすことを夢見ていた人物で、大正3(1914)年に完成させた独自設計車に資金協力者である田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の頭文字を取って「DAT」と名付けた。「脱兎」の意味もあったという。

大正7(1918)年に「(株)快進社」に改組、関西で活動していた「実用自動車製造(株)」と大正15(1926)年に合併し「ダット自動車製造(株)」となる。その時点で「DAT」の意味付けが[Durable=頑丈、Attractive=魅力的、Trustworthy=信頼性]とされた。

「ダット自動車製造(株)」は昭和6(1931)年に新小型乗用車を生み出し、「DAT」の生み出した息子の様なものだということから「DATSON」と命名する。その後、のちの「日産」の源流「戸畑鋳物(株)」の子会社となる。 かの鮎川義介の自動車製造出発点であった。

翌昭和7(1932)年、『DATSON』は「ソン=損」でイメージが悪いとされていた車名を「昇天する明るいイメージの太陽=SUN」に変更し『DATSUN』に改名した。

そして昭和8(1933)年には、のちの「いすゞ」の源流「(株)石川島自動車製作所」と合併し「自動車工業(株)」が設立される。この時、『DATSUN』の製造権は「自動車工業(株)」に移されたが、政府の意向もあり、のちの「日野」の源流「東京瓦斯電気工業(株)」との合併による標準型式自動車と軍用自動車の製造を目指して民間小型乗用車の製造に注力しなかった。もし、そうでなかったら「いすゞ」のブランドになっていたかも知れない!?…が、当時その選択がなかったため、同年、「戸畑鋳物(株)」の求めに応じ製造権を無償譲渡する。こうして「戸畑鋳物(株)」と「日本産業(株)」の出資で設立された「自動車製造(株)」が『DATSUN』を製造することとなる。その「自動車製造(株)」が翌昭和9(1934)年には「日産自動車(株)」と改名され、後に車名を超えて日産の大ブランドとなったという経緯だ。

車名としても長い歴史の『DATSUN』だが、戦後、日産が将来を見据えて新型の開発に着手し、昭和30(1955)年に現代につながる『110』が登場する。

エンジンは、直前まで製造された「DATSUN DS‐6」から継承された「D10型」直列4気筒サイドバルブの860cc25psだったが、ボデーと耐久性が大幅に向上していた。

昭和31(1956)年式として、エンジンの騒音対策など細部にわたり進化した「112」は「毎日産業デザイン賞」を受賞する。

そして昭和32(1957)年、新鋭エンジン「C型」4サイクル水冷頭上弁式直列4気筒の1000cc34psを搭載し、さらなる改良を加えられた『210』が誕生する。

ここからは、細部を含め、昭和33(1958)年発行のカタログ画像を存分にお楽しみ頂きたい。

ちなみに、子供のころ我が家に往診に来てくれたお医者さんは『DATSUN』のオーナーだった。鮮明過ぎるほどにはっきり記憶していて半端なく懐かしい。

最後に、自動車ファンとしては早く立て直して欲しいと願ってやまない…。

(敬称略)[2018-12]

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