TOYOPET CROWN [1st]…Ⅰ
ゴルフの松山英樹が世界ランク4位の快挙!!全米オープンでは惜しくも優勝を逃したものの世界の強豪を相手に堂々たる戦いぶりだった。有り得ない!?…が、自分が戦っているような気分になって嬉しかった。
実は、そんな嬉しさに浸りながら、ふと、日本の自動車製造の歴史について想いを巡らせていた。アメリカの自動車社会を見て、国産乗用車の独自開発製造に情熱を燃やすに至った豊田喜一郎に始まって、今や世界の頂点に立っているトヨタ。そして日本の自動車製造の歴史は、国産車保護育成の国策や、外国車ノックダウンによる技術習得などもあったが、後発ながら結果的には世界を制する勢いだ。相当ラフ!?ではあるが、多くの工業製品やゴルフしかり、野球やフィギュアスケートなどの活躍ぶりとも似通っているな…との思いである。
さて、本題に入るが、このクルマが独自開発の道を歩み、難関を乗り越え誕生したのが開発開始から3年後の昭和30(1955)年である。豊田喜一郎死去の3年後でもある。そして、60年以上を経た現在でも『クラウン』はトヨタを代表する車として君臨しているからすごいことだ。聞いた話だが、独自開発の道を選んだのは豊田英二であり、「日本の道(の悪さ)を知った者が開発すべき」との信念だったようだ。下手な私のスケッチだが、
純国産と言われるこのクルマの目指したところは、悪路との戦いに勝つこと。乗り心地が良く耐久性に優れたクルマにすることだった。トラック用フレームにボディを載せたものではなく、低く安定性に優れたクルマにするべく新たにフレームを設計、乗り心地を良くするために前輪独立懸架(悪路への対応上前輪のみにとどめた)を採用した。エンジンは既に実績のあったR型、1453cc48hpを搭載、独特の「観音開き」の初代RSが誕生したのである。
ここで、その成功の裏にあったエピソードを一つ。発表会に「トヨペットマスター(同じエンジン搭載の同クラスの乗用車)」が同時に展示された。乗り心地重視で前輪独立懸架を採用した『クラウン』。タクシー用としても十分検討されてはいたが、万一悪路に負けるトラブルが続出すると会社の存亡すら危うくなる状況の中で、主にタクシー用に前後輪共リジッドアクスル採用の「マスター」を用意することで、リスク回避を狙ったという話が伝わっている。
しかしながら、結果は取り越し苦労だった。すなわち、『クラウン』に大きなトラブルはなくタクシー会社などでの評判も上々。よって、営業車向けにも販売することとし、同年末には主に自家用向けの「デラックス」を追加することで、「マスター」は翌年末までの2年足らずで姿を消すことになったのである。
ところで発売のこの年は、わが国の自動車工業界にとって重要な年であった。「国民車構想」の出現である。あえて出現と表現したのは、この構想が通産省の公式発表ではなく、「すっぱ抜きされるよう仕組まれた?」…とのエピソードを聞いた記憶があるからだ。真相はともかく、ここで大事なのは、このことがキッカケで、国民車、大衆車への機運が高まり、後の本格的なモータリゼーションの広がりに大きく影響を及ぼしたことである。
ポルシェ博士の起案により、ヒットラーが表明したドイツの国民車構想からなんと20年ほど後の事だった。正に冒頭の「後発組世界制覇」談義に思い至る。
下の写真は昭和30(1955)年発行と思われるカタログからの1.5L「デラックス」のものだが、冒頭に「高級乗用車はやはり外車でなければ―と言われたのは今ではもう昔話になりました」とあり、自信のほどをうかがわせる。また「動くサロン」の表現があり、「悪道路走行に適するサスペンション特性、快適な乗り心地と耐久性という本質的に異なる要素を5:5の割合で巧みにまとめた」とある。そして、高級車なのに[カー・ヒーター、オート・ラジオ、時計、フォグランプ、バックアップ・ランプ付]と謳っているところがなんとも時代を感じさせる。
私ごときが生意気だが、国産乗用車製造を夢見て設計図を握りしめたまま道半ばで「無念」にも亡くなられた豊田喜一郎に「初代クラウンと今のトヨタを見て下さい」…そして、自動車ファンの一人として「ありがとうございました」と言わせて頂く。
(敬称略)[2017‐12改]