CONY GUPPY

夏が過ぎて秋本番となれば秋刀魚が旨い。だが今回は食用ではなく観賞用の魚の話。数ある観賞魚の中でも一般に良く知られているグッピー。熱帯淡水魚で、特に雄は色彩や模様、尾びれの形などが美しく初心者にも楽しめる一方奥も深いと聞く。

そこで今回は、そのグッピーが名の由来となった『コニーグッピー』をご紹介する。カタログに「はんらんする車の波をスイスイと縫って泳ぎ抜く素晴しい性能と乗心地…」と、由来にまつわる表現がある。

現在日産グループで、主にエンジンやミッションなどの開発・製造を担っている愛知機械工業(株)が完成車メーカーだった時代に製造した言わばミニ四輪車だ。愛知機械工業の前身は愛知時計製造から分離した航空機部門から成った愛知航空機である。沿革を見ると、昭和22(1947)年から三輪自動車「ジャイアント号」及び各種発動機の生産開始。昭和27(1952)年、愛知機械工業に改称。昭和34(1959)年に軽四輪自動車「コニー360」の生産開始。昭和37(1962)年に日産自動車と技術提携。昭和40(1965)年には同社と業務提携、現在に至っている。

『グッピー』の誕生は昭和36(1961)年で、HPによれば僅か1年間しか製造されなかった希少なクルマだ。開発コンセプトは「乗用車感覚のキャビン付オートバイ」ということだが、開発過程で1人乗、前2輪、後1輪構想から安定性を考え2人乗四輪車に変更された様だ。

エンジンは強制空冷2サイクル単気筒199cc、11ps、最高速度80km。2人乗りで、最大積載量100kg、最小回転半径3.75m、40km/h走行での燃費率30km/L。四輪独立懸架、トルコン装備の優れもので可愛いクルマだった。デザインは、「宝石からカーフェリーまで」の宮田修平が東京芸大専科時代に同校の後輩達と共に仕上げたと聞く。

しかし、コンセプトは良かったものの小口輸送手段がオートバイやスクーターなど手軽な二輪車中心で、大卒の初任給が1万5、6千円程度の時代に22万5千円の価格が受け入れられず、登場が早すぎたとの見方もあるようだ。

さて、ここで一息…。誕生の昭和36(1961)年を振り返ってみよう。前年あたりからの高学歴志向の高まりから、経済成長の立役者だった中卒者の数が激減し、集団就職の中卒者が「金の卵」ともてはやされた時代。また、最近は話題騒然の相撲界だが、この年は柏鵬時代幕開けの年。相撲人気もかなり高かった記憶だ。テレビでは、のんびりムードのホステス中嶋弘子が印象的だったNHKの「夢であいましょう」が始まった年で、この番組から数年の間に永六輔・中村八大コンビの作詞、作曲による坂本九「上を向いて歩こう」やジェリー藤尾「遠くへ行きたい」、梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」などのヒット曲が生まれた。映画は、加山雄三の「若大将」シリーズ第1作が封切られた。一方、交通戦争の文字が新聞に散見され出したことは、クルマ大好き人間として複雑な心境だった。

上の写真は誕生の頃と思われる総合カタログからの『グッピー』。「特長」として「●容易な運転操作●文句のない乗心地とすぐれた安定性●広々としたキャビン、ゆったりした運転席●見易い計器類●優れた性能●取扱い容易なエンジン●強度剛性十二分の車体●フェザータッチの全輪ブレーキ」を列挙している。下の写真は生産終了後?の昭和38(1963)年に発行された総合カタログからの「スーパーグッピー」。スーパーの由縁は、全長が50mm長く三角窓があることのようだ。

愛知機械工業には「コニー・グッピー・ジャイアント復元クラブ」がある。是非訪問したいと思いながらなかなか時間が取れないので、失礼ながら、取り急ぎ、期待を込めて激励させて頂く。     (敬称略)[2017-12改]

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