DATSUN FAIRLADY 1500

新型コロナウイルスに加え円安の世の中。

先の見えない中で生活環境も変わり、当然のごとく経済も低迷している。

そんな深刻な状況の中で、単に懐かしむということではなく早期に不安が解消(スポーツカーで疾走するようなさわやかな生活が出来る)することを願いながら、輸出からスタートして国内でも人気を博した「DATSUN FAIRLADY」を回想する。

日産のスポーツカー開発の歴史をさかのぼると昭和27(1952)年登場の「DATSUN SPORTS DC‐3」にたどり着く。

[mySKETCHBOOKより]

日産に於ける北米の雄(小生の思い)片山豊の発想による太田祐一の英国風デザイン。

エンジンは「D10型」直列4気筒4サイクル側弁式860cc20psで、「MG」などには及ばなかったが我が国初「SPORTS」の名を付けた「Show Model」のスポーツカーだった。

    次いで、昭和34(1959)年「DATSUN SPORTS S211」を発売する。

「DATSUN 210」のシャシーとエンジン「C型」4サイクル水冷頭上弁式直列4気筒1000cc34psに真赤と白のツートンカラーの国産初FRPボディを載せ最高速度は115km/hに達したという。FRPボディの開発には当時の日東化学の協力があったと聞く。

翌昭和35(1960)年のモデルチェンジで当初「フェアレデーSPL212」となり、これが初代の誕生となる。

アメリカのミュージカル「My Fair Lady」由来の名は当時の社長川又克二の命名だが、後に『フェアレディ』に改められた。

310系「BLUEBIRD 1200」(輸出仕様)のシャシーとエンジン「E型」4サイクル水冷頭上弁式直列4気筒1200cc48psに同じく真赤と白でスチールに変更されたボディを載せたトーションバー採用の前輪独立、最高速度は132km/hの左ハンドル輸出専用とされた。

さらにその後のパワーアップで「SPL213」となり、工場見学の際入手したと記憶しているパンフレット「日産自動車の製品―1962-」には60psとされている。

[「日産自動車の製品―1962-」より]

その後、昭和36(1961)年に『DATSUN FAIRLADY 1500』が「第8回全日本自動車ショー」に展示される。

「日本自動車工業会」によれば「スポーツカーや試作車が数多く出品され、“華やか”であったと評された」ショーだった。

そして、「SPL213」の発展形ではなく国産初の本格的スポーツカーとして翌昭和37(1962)年に発売された。

初代「BLUEBIRD(310型)」のシャシーを強化し、初代「CEDRIC(30型)」のエンジン「G型」1500cc直列4気筒71馬力/5000rpmを載せ、横(左)向後部座席を装備した3人乗りだった。

翌昭和38(1963)年開催の「第1回日本グランプリ」では、輸出仕様Cab装備で田原源一郎が優勝した。

同年のMCで、SUツインCab装備の80馬力/5600rpmにパワーアップ。

さらに昭和39(1964)年春にはレーシングKITを発売、この年のMCで2シーターに変えた。

ここに昭和39(1964)年の発行と思われるカタログからの画像をご紹介する。

カタログの痛みはひどい‼が、いずれ「Z」(別途ご紹介)につながる正に本格的なスポーツカーの出発点となる実力を備えていて、翌昭和40(1965)年には「FAIRLADY1600」に進化した。

小生に於ける『魅力ある「日産=NISSAN」』が蘇える。

(敬称略)

[2022-11]

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