JIMNY

既に10年以上も前の出来事だが、総理が漢字の読みを間違え、漢字関連の本が売れるという珍現象‼

それはともかく日本語は難しい。

その麻生総理は「あそう」で、川崎市麻生区は「あさお」と読む。

現在は副総理だが、菅(すが)総理を(かん)とよんだとか…⁉

なんとも憎めないお人柄でちょっと好きだ。

さて本題にもどるが、「前輪」と「全輪」で読みは同じだが意味は全く違い、「全輪駆動」と「総輪駆動」など複数の同義語が多用されるがごとくだ。

その全輪(総輪)駆動、特殊な車両を除けば大半が四輪駆動車だ。

現代は「4WD」など判りやすい表現が常用されているが…。

そこで今回は国産初の量産軽四輪駆動車で今も人気の「鈴木(現スズキ)」『JIMNY』の初代(LJ10/LJ20/SJ10)をご紹介する。

「LJ10」の登場は昭和45(1970)年だが、昭和42(1967)年に生まれた国産初の軽四輪駆動車「HOPESTAR ON360」がそのベースになったという知る人ぞ知る開発秘話が欠かせない。

「四輪駆動不整地用軽万能車」HOPESTAR ON 360

「ホープ自動車」が、販売体制が整わないなど自動車製造を断念したものの夢を捨てきれなかった社長小野定良の「実用的な軽四輪が必要だ」という発想から生まれたものだ。しかし、そのボディとフレーム以外は寄せ集めであることに納得出来ず、かといって全てを自力で製造するのは困難だったことから製造権を当時の「鈴木自工」に譲渡した。すでに同様の発想から検討を進めていた鈴木修(現スズキ代表取締役会長)が当時社内の反対を押し切っての買い物だったが、この先見性にも頭が下がる。

「LJ10」は

〈スズキ歴史館で小生撮影〉

ソフトトップのみで、それまで実績のあった「CARRY」 の360㏄空冷2サイクル2気筒をアルミシリンダーに変え、25ps/6000rpm3・4kgm/5000rpm、タイヤサイズは6・00-16で登坂能力は27・5度だった。

翌昭和46(1971)年には27ps/6000rpm3・7kgm/5000rpmにUPされ登坂能力は33・0度だった。

昭和47(1972)年には「LJ20」

〈スズキ歴史館で小生撮影〉

〈サイドのマーカーランプが4灯なので輸出用のモデル?〉

が登場する。フロントデザインを変更、メタルトップのVANボディを追加。エンジンを空冷から水冷に変えた。性能も28ps/6000rpm3・8kgm/5000rpmにUPされ登坂能力は35・0度まで向上させた。

昭和48(1973)年には「SONY」との共同開発である「ビデオカー」なるものも追加している。

そして昭和51(1976)年、「SJ10」が誕生する。

軽自動車の規格拡大にともない3気筒550ccのLJ50型エンジンを搭載し、排気量にちなみ「JIMNY55」の名を付けた。低回転域での最大値26ps5.3kgmは実質的な性能向上を実感できる仕様であり、このエンジン型式がそのままモデル名になった輸出専用モデル「LJ50」は海外でも好評を博したという。

「55」誕生の昭和51(1976)年はロッキード事件で揺れた年。世間は不景気で、サラリーマンの副業「兼サラ」が流行語にもなった時代。これらを認める会社が現れる現代にも通じる。また、身近なところでは「クロネコヤマトの宅急便」がスタートした年でもある。

我々の生活が大きく変わったと言っても過言ではない。宅配はステイホームに無くてはならないインフラだ。   

最後に、今や軽自動車業界のリーダ―格グループにあるスズキには今後共更なる飛躍を期待している。

(敬称略)

[2021-1改]

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